パブリック・スクール

Rugby School, Senior Boy's Room in Sherriffs
↑ラグビー校の生徒たち

パブリックとありますが、公立ではなく私立学校のことです。ただし、パブリック・スクールと呼ばれるにはいくつかの条件があります。
・長い歴史(伝統)がある優秀な学校
・高価な学費
・全寮制(寄宿学校)
とくにザ・ナインと呼ばれる9つの名門校が代表的です。(ウェストミンスター、ウィンチェスター、イートン、ハロウ、ラグビー、マーチャント・テイラーズ、セントポールズ、シュルーズベリー、チャーターハウス)

イートン校イートン校
名門「イートン校」の制服制服

スクールチャペルハロウ校
ハロウ校制服制服

ハロウとイートンの学生
↑ハロウとイートンの学生。1894年大衆紙パンチのイラスト。当時と現代も制服はほぼ同じ。

そのなかでも日本でひときわ知られているのが、イートン校とハロウ校。現在もエリートを輩出して有名ですが、ヴィクトリア朝は貴族の子弟が入学する中等学校でもありました。
ここではおもに19世紀のパブリック・スクールについて書いていきます。現代版を知りたい場合は、ネット検索してみてください。たくさん出てきます。

そもそもパブリック・スクールの前身は中世のグラマー・スクールでした。教会や聖堂に附属している学校でラテン語を教えていたのです。やがて大学ができると中等学校になりましたが、当時はお金持ち(王、貴族、聖職者等)が学校を慈善事業として作るのが一般的で、15世紀当時にはイギリス全土におよそ300ものグラマー・スクールがあったそうです。
もっとも旧いのがウィンチェスター(1394年~)で、その次がイートン(1440年~)です。イートンはケンブリッジ大学へ進学させるために王が創設しました。

グラマー・スクールを創った目的は、百年戦争やペストの流行によって亡くなった大勢の聖職者の補充するためでした。中世は聖職者が要職を大勢占めており、王に使える役人も彼らだったのです。中世のエリートでもありました。
貴族だけでなく、広く一般(公)から生徒を募集したことで、パブリック・スクールと呼ばれるようになったのです。パブリック・スクールはやがて紳士を生み出す学校になりました。

ラグビー校グラウンドラグビー校

初めは貧しい下層中流階級の子弟たちを教育するための寄宿学校でしたが、宗教改革によって修道院が解散させられると、所領からの収入がなくなり、パブリック・スクールは困窮しました。
そこでお金持ちの子弟も大勢入学させることにより、存続させたのです。
やがて学費を免除されていた貧しい学生が減っていき、高額な授業料を払える貴族や富裕層の子弟が大半を占めました。当時、新興ブルジョワによって新しい学校もたくさん創られました。ラグビーやハロウも含まれます。

19世紀に入ると寄宿学校の制度も整えられていき、ラグビー校の校長であったトマス・アーノルドが監督生制度を導入すると、ほかの学校へも広まりました。やんちゃな男子学生たちに手を焼いていた教師の代わりとして、選ばれた上級生が生活指導を監督するのです。

Mr John Riddle, headmaster, with his pupils at the Royal Hospital School.

やがてパブリック・スクールは上下関係の厳しい、軍隊のような規律だらけの学校になっていきます。それまでは貴族の子弟たちは、身分があることで好き放題していましたが、責任を持たせることで、怠惰や傲慢さを正しました。

同時にその監督生をお世話する係――当番生も生まれます(ファギング)。下級生が上級生の身の回りを使用人のように奉仕するのです。お茶を入れたり、靴を磨いたり、掃除をしたり……。上下関係を学ぶのはもちろん、実家で甘やかされていたお坊ちゃまたちを、自立させる訓練になりました。

Artarmon Public School

授業のメインは元がグラマー・スクールだけあり、ラテン語とギリシア語(古典)です。19世紀当時はすでに古臭い授業でしたが、伝統を学ぶことが紳士としての常識でもありました。ただ、卒業して役に立ったとは言いがたかったようです。
そしてスポーツで身体を鍛えるのも、紳士としての条件でした。ラグビーや漕艇、クリケット等です。

Drouin schoolboys playing cricketクリケット

Sydney Boys' High School Team漕艇(ボート)

食事は質素で、身分問わず同じ釜の飯を食うことで連帯感が生まれました。貴族と中流階級の平民が親しくなれる機会でもあったのです。やがてその交友関係が卒業後も続き、ヴィクトリア朝独自の社会やシステムを発展させたとも言われています。

そんなエリート輩出のパブリック・スクールでしたが、大きな問題もありました。
そのひとつが上級生の暴力です。男ばかりで規律だらけの生活は相当なストレスを生み、弱い下級生がはけ口となりました。

Armidale School for Boys

さらにひどくなると、鞭打の罰を与えた教師へ反撃したり、生徒たちがつるんで軍隊出動沙汰の大乱闘になったこともあります。18世紀後半から19世紀の半ばがピークでした。当然、生徒たちは退学になりました。
あと、酒は厳しく禁止されていましたから、見つかると罰を受けました。

一番、問題になっていたのは、同性愛です。
若い男ばかりが集団で寝起きするのですから、かなり多かったそうです。19世紀の有名人もかなりいました。パブリック・スクールは同性愛の温床として、密かに知られてもいました。
同級生同士だけでなく、上級生が下級生に迫ったり、生徒と関係をもつ教師もいました。ただ、当時は同性愛が発覚すると監獄行きになったため、公になることはありませんでした。暗黙の必要悪だったのです。

2013/7/20追記。
Major General Sir John Headlam
↑英国陸軍少佐の制服。

卒業後、オクスフォード大学かケンブリッジ大学(略してオクスブリッジ)へ進学します。20世紀初頭までは女子の入学は許可されていませんでしたから、大学でもまた男ばかりの寄宿生活でした。

紳士として、彼らは大学を卒業したあと、法廷弁護士、内科医、牧師、高級官僚、裁判官になるのが普通でした。次男以降は嫡男として家督が告げないため、独立する必要があったのです。
士官学校へ進学する者もいました。卒業後は士官となって、職業軍人として生計を立てます。勉強が苦手で、大学へ行きたくない場合の選択肢でもありました。

現代では入学試験が厳しいパブリック・スクールですが、当時は勉強ができなくても貴族の子弟というだけで入学できました。その代わり、留年することもありました。
かのウィンストン・チャーチル首相がそうで、低学年の生徒たちに混じって勉強していたそうです。陸軍士官学校の受験に、二度失敗。三度目でなんとかギリギリ……というエピソードもあります。

格式あるパブリック・スクールを卒業した紳士たちには、いくつかの共通点があります。
まず、話し方(アクセント)が、学校ごと若干異なります。会話でどこの卒業生なのかを察することができました。
紳士らしくまっすぐに背筋を伸ばし、顔を上げて話し相手を見つめるのも彼らの特徴です。
そして、週末ごとに必ず家族へ感謝の手紙を書く習慣があったため、世話になった人には後日、礼状を出します。

※2016/3/6追記。

1920年代ごろになると、パブリック・スクールはかなり規律がとれた学び舎になっていたようで、表立った暴力やイジメはありませんでした。
しかしスポーツ至上主義なのは変わらず、芸術肌で苦手な生徒はなじめず苦労したようです。まるで監獄だとのちの大作家イーヴリン・ウォーも言っていたほど。
その代わり大学へ進学すると、厳しい規律はなくなり、優雅な学生生活を送れました。少年時代おのれをしっかり律することで、真の自由を得ることができるという、英国紳士の思想です。
自由と規律-イギリスの学校生活 (岩波新書)
自由と規律-イギリスの学校生活 (岩波新書)
↑を参考にしました。詳細コメント

※2017/4/2追記。

パブリック・スクールは理想と現実の乖離が激しかったようです。表向きは紳士な学生たちでしたが、裏では狡猾に立ち回る術を覚えたとか。
テストで不正、禁止された参考書(おそらく解答だらけのカンニング本)、課題を同級生と写し合う、校外に出ると横柄な態度、監督生の不条理で容赦ない鞭打ち、性欲を解消するための同性愛等など。
入学時は真面目だった少年たちは、上級生になるにつれ要領よく立ち回り、手抜きすることを学びます。あと上級生に愛されると、それだけ味方が増えて卒業後も人脈が広がるから、生徒同士の恋愛も珍しくなかったそうです。
(ラクビーの授業で着るズボンが短すぎるため、膝丈までに伸ばし、裾を紐でしばったとか、寝室から出られないよう鉄格子をつけられたとかいう、話があるほど)
ただし見つかれば、即、退学なのであくまでも秘密にしなければいけませんでした。

勉強よりスポーツが重要視され、活躍できる学生は学校のヒーロー扱いされました。勉強ができてもスポーツが苦手だと、居場所がなかったといいます。
しかし、進学するころになると立場が逆転します。飛び級をしてすぐに大学へ進学できる学生はいいのですが、勉強ができないあまり、留年する学生もいます。そしてどうにか卒業するも、彼らは口をそろえて言うのです。
「パブリック・スクール時代が、僕の人生の黄金期だった」と。
最終的に卒業した彼らは、何を一番学んだのかといえば、「忍耐」です。殴られようが侮辱されようが、平然としてへこたれない精神――これこそが、昔の英国紳士のイメージそのものです。

パブリック・スクールは上流階級や富裕層の子弟が入る学校であり、あくまでも紳士になるためでした。勉強では役に断たない古典とスポーツばかり重視され、20世紀半ばになると時代遅れになります。
中流階級と労働者階級が進学するグラマー・スクールに学力が追い越される現状に、危機感を覚えたパブリック・スクールは実用的な勉学(物理や科学等)を重視します。しかし、長い伝統もあり、なかなか浸透しなかったそうです。

参考書籍

パブリック・スクール――イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)

Mark Morris, a pupil at the Royal Hospital School.
↑パブリック・スクール(ロイヤル・ホスピタル)の制服。1850年代。ナインズほど格式のない寄宿学校がたくさんありました。彼らは卒業後、進学をせず就職します。写真から推察するに、水兵か船員として働いたのかもしれません。

その他写真をまとめました。
約100年前の制服&軍服男子写真【少年兵・英国パブリックスクール等】

United Kingdom – a set on Flickrに、イギリスの学校の古写真がたくさんあります。歴史あるバロック建築ばかり。


↓パブリック・スクールと大学を舞台にした、同性愛がテーマの映画作品
アナザー・カントリー HDニューマスター版 [DVD] モーリス HDニューマスター版 [DVD]

ガーフレット寮の羊たち 1 (プリンセスコミックス)
ガーフレット寮の羊たち 1 (プリンセスコミックス)
↑パブリック・スクールの新入生が主人公の少女漫画。BLではなく(ここ重要。というか貴重)、正統派青春モノです。設定と史実が詳しくて資料にもおすすめ。