万国産業大博覧会と水晶宮

1851年ハイド・パーク:万国大博覧会

万国産業大博覧会(ロンドン大博覧会)の開催は、ヴィクトリア女王の夫であるアルバート公の提案により、1850年1月ロンドン市議会で満場一致で可決しました。
博覧会場の建設は巨額の国庫ではなく、篤志家による寄付で賄われ、上流階級や富裕層、銀行が負担します。場所はロンドンのハイド・パークに決定。
公募で建築家のジョゼフ・パクストンが、設計しました。
ジョゼフ・パクストン

その展示場は水晶宮(クリスタル・パレス)と呼ばれ、鉄柱3000本以上、鉄製の屋根の梁が1245本、その上に400トンものガラス屋根が乗せられます。建築後、500人の塗装工が作業。
水晶宮外観

その後、15000人の出展者たちが西側にイギリスとその植民地、東側に外国の展示品を並べ、中央には彫像、噴水、植物が配置されました。

万国産業大博覧会は1851年5月1日に開会します。
会場には大勢の来場者が訪れ、月曜日から木曜日は労働者階級が多く、1シリングで見物できました。金曜日は2シリング6ペンス、土曜日は11シリング6ペンスで上流階級の人々が見物しました。貴婦人たちは車椅子に乗って、広い展示場を見て回ります。
当時、初めて公衆トイレが作られ(ただし有料)、必要に迫られた人々が大勢利用しました。

開会式の女王陛下

博覧会の展示物には、カフス、ゴム製品、模型、農器具、タバコ、香水、チョコレート、毛皮や羽毛、ステンドグラス、中世宮廷のレプリカ、動物の剥製……等々。
綿製品の展示

一番の目玉はインド産のコイヌール・ダイヤモンドで、106カラットもありました。贈り物としてヴィクトリア女王に献上されたものです。
インドコーナー

各国の展示品

博覧会は10月15日に閉会され、1854年6月19日にテムズ河南のシデナムに水晶宮が再建されました。コンサート・ホール、植物園、博物館、美術館、催事場などが入居した複合施設となり、大勢の人々でにぎわいましたが、1870年以降から人気が陰り始め、1909年に破産。
1936年に火事で消失します。その後、再建されることはありませんでした。
移設後の水晶宮



↑番外編の短編集。万国大博覧会を見物するお話があります。


↑主要参考文献:十九世紀イギリスの日常生活(絶版)


大英帝国博覧会の歴史: ロンドン・マンチェスター二都物語
↑未読。さらに詳しく知りたい方向け。