ヴィクトリア朝時代、女性の仕事は限られていました。中流階級の淑女だったら家庭教師に、労働者階級の少女だったら家事労働奉公――メイドです。
メイドとして働けば家事や礼儀作法を身につけることができるため、当時は人気の職業でした。いわゆる花嫁修業です。お屋敷で奉公すれば女主人が監督してくれるし、悪い遊びに染まることもありません。……というのは建前で、ほかに仕事を選びようがなかったのが事実です。
メイドのなり手はおもに、農村出身の少女たちでした。13歳までに家や近所のお店で家事や雑用をこなしながら、最低限の仕事をまず覚えます。そのあいだに、なけなしの給金を貯め、メイド用の制服を買う資金にします。メイドは従僕とちがって、お仕着せを主人から支給されることはありません。
ちなみに19世紀末になると、都会の少女は店員や女工として働くのが普通でした。24時間365日主人に管理される奉公仕事は自由がなく、敬遠されたのです。
農村の少女たちは、知り合いのつてや職業紹介所を経て、家事奉公を始めます。
初めに少女たちは、家女中になるか台所女中になるかを決める必要があります。将来、出世して料理人や家政婦になりたければ、台所女中でした。ただし、皿洗いはとても重労働で単調な仕事だったため、長続きしないメイドも大勢いました。
下っ端のメイドとして雑用をこなしながら、仕事を覚えていき、さらに上を目指すために彼女たちは転職を繰り返します。男性使用人とはちがって、先輩が結婚退職をすれば空きが出るのもあり、運が良ければ昇進もできました。
ただし、すべてのメイドが順調に昇進できるわけではありません。女性は妊娠してしまうと、まず奉公を続けるのは不可能でした。実家にもどるか、救貧院で世話になったあと、ふたたび職業紹介所に登録して一から仕事を探す必要があります。
元雇用主が良い紹介状を書いてくれなければ、雇用条件の悪い職場でしか働けませんでした。彼女たちがもっとも厭うのが、雑役女中の仕事です。ひとりですべての家事をこなすのですから、かなりハードな仕事です。
そんなメイド生活からゆいいつ抜け出せるのが、結婚でした。農村出身のメイドたちは地元に恋人がいることが多く、ある程度の年齢に達したら結婚退職しました。あるいは屋敷に出入りする牛乳屋や肉屋の男と結婚します。
しかしすべてのメイドが順調に結婚できるはずもなく(ヴィクトリア朝は女余りの時代だった)、独身のまま、あるいは家計を助けるために、彼女たちは薄暗い階下で家事労働に勤しんだのです。
それすらできなくなると、さらに低賃金のお針子になったり、売春婦として生計を立てる者もいました。
とくに悲惨だったのが孤児院出身の少女メイドで、身寄りがないのをいいことに雇用主から虐待を受けたり、無給で働かされた者もいました。身元が確かでない彼女たちが、裕福な家庭で雇われることはなく、個人商店や貧しい中流階級がおもな奉公先でした。